台湾×東村山・小平・東大和|文化・食・歴史を巡る旅
(更新)
林業都市から生まれた甲子園の奇跡 ― KANOとは何か
小平や東村山の歴史をたどると、「地域が人を育てる」という共通点が見えてきます。それは日本だけでなく、海の向こう・台湾でも同じでした。

KANOのセットも残る嘉義檜意森活村(Hinoki Village)
台湾・嘉義から海を渡ってきた、嘉義農林学校、通称「嘉農(KANO)」です。彼らは甲子園初出場ながら決勝まで進み、日本中を驚かせました。そこにあったのは、
を超えた、一つのチームの誕生でした。
KANOとは、正式には台湾総督府立嘉義農林学校野球部を指します。日本統治時代の台湾において、日本の教育制度の中で育成されたチームです。1931年(昭和6年)、彼らは第17回全国中等学校優勝野球大会(現・夏の甲子園)に出場し準優勝を果たします。これは単なる地方校の躍進ではありません。
という点で、当時としても極めて特異な存在でした。
KANO最大の特徴は、そのチーム構成にあります。当時の嘉農は、以下の三つの民族で構成されていました。
これは偶然ではなく、当時日本統治時代の台湾社会そのものの構造でした。そして、この異なる背景を持つ選手たちを一つにまとめたのが、監督の 近藤兵太郎です。彼は民族による区別を排し、
という理念のもと、技術以上に「精神」と「規律」を重視しました。この指導が、単なる寄せ集めではない
結束を生み出します。
決勝戦の相手は、愛知の中京商業(現・中京大学附属中京高等学校)。硬式野球強豪校です。
嘉義農林の投手、台湾新竹庁苗栗支庁出身の
彼は酷使による右手指を負傷しながらも、最後までマウンドに立ち続けました。劣勢の中でも嘉農には観客から大きな声援が送られ、その健闘は球場全体の共感を呼びました。作家の菊池寛は、この試合を「涙ぐましい三民族の協調」と表現し、新聞で絶賛しました。
KANOを語る上で避けて通れないのが、台湾が日本統治下にあったという歴史です。野球は日本から持ち込まれた文化であり、学校教育の中で広まりました。その中で嘉農は、
という要素が融合した存在でした。KANOは、台湾野球の原点の一つとして語り継がれています。
この物語の舞台である嘉義は、日本統治時代、阿里山の木材を運び出す拠点として発展した林業のまちでした。阿里山の木材を運ぶ拠点として整備され、鉄道や都市計画が進められました。その近代化の中で生まれたのが嘉農(KANO)です。現在も嘉義には、
など、当時の記憶が色濃く残っています。
この実話は2014年、KANO ~1931 海の向こうの甲子園~として映画化されました。制作総指揮は魏徳聖、監督は馬志翔。台湾国内では大ヒットを記録し、観客満足度でも非常に高い評価を得ました。
この映画が興味深いのは、単なる感動作ではない点にあります。
などとして、現代台湾社会に強い影響を与えました。
KANOの物語が90年以上経った今も語られる理由は明確です。
を体現しているからです。そしてもう一つ重要なのは、この物語が「遠い歴史」ではないことです。地域が人を育て、人が地域をつくる。この構造は、日本の小平や東村山の開拓の歴史とも共通しています。
KANOは、
嘉義という一つの都市から生まれたこの出来事は、今も台湾野球の精神の中に生き続けているとも聞いています。そしてそれは、私たちが暮らす地域にも通じる問いを投げかけます「人と地域は、どうすれば一つになれるのか」KANOは、その一つの答えを示しているのかもしれません。
台湾に約10年間在住し、現地で生活・仕事を経験。
現在はまいぷれ東村山・小平・東大和 編集部として、北多摩と台湾をつなぐ視点から、歴史・文化・地域の魅力を取材・発信している。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。
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