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(更新)
― 市政府が語る「忠義の精神」と都市整備の背景 ―
台湾・嘉義市の中心部、林森西路と忠孝路が交わる交差点。そこに立つ一体の銅像は、夕暮れの中で静かに街を見守っています。その人物は、中国・南宋時代の武将「岳飛(がくひ)」。なぜこの場所に岳飛像があるのか。その答えは、嘉義市政府自身が公開した公式資料の中に明確に記されていました。

林森西路と忠孝路が交わる交差点にある岳飛銅像
岳飛銅像は、嘉義市東区・林森西路と忠孝路の交差点に設置されています。交通量の多いこの場所に存在しています。
嘉義市政府が2011年に発表した公式資料です。
| 資料名 | 岳飛銅像綠美化,諸山羅列顯精神 |
| 発行元 | 嘉義市政府(工務処) |
この公式資料では、以下の点が明確に述べられています。
岳飛銅像は「忠孝節義」の伝統を代表し、嘉義の人々の忠義精神を象徴する存在である
| 当時の市長 | 黄敏恵 |
| 中央政府補助を受けて整備 | |
| 都市計画の一環として実施 |
整備プロジェクト名「阿里山林業村周邊地區都市縫合計畫」
岳飛像はこの中で「歴史・精神を象徴する拠点」として位置づけられていると思われます。
周辺と土台が「天然石材」を使用。「諸山羅列(山々が連なる様子)」を表現するために、像の周りに大小さまざまな天然石を配置し、あたかも岳飛が険しい山脈の前に立っているかのような風景を作り出しました。
さらにこの整備では、近隣に位置する「雲霄古道」の歴史的雰囲気を踏まえたデザインが意識されています。雲霄古道は、かつて地域の生活道路として利用され、特に線香づくりなどの庶民の営みが行われていた場所とされています。
嘉義という地名は、もともと「諸羅(Zhūluó/ㄓㄨ ㄌㄨㄛˊ)」と呼ばれていました。この名称は、先住民族の言語に由来するとされています。しかし18世紀、清朝統治下においてこの地は大きな転機を迎えます。
1786年から1788年にかけて発生した反乱、いわゆる林爽文事件。この動乱の中で、諸羅の住民たちは城を守り抜き、清朝側に協力しました。住民の忠義が評価され、清朝皇帝・乾隆帝から『嘉義』の名を賜ったと伝えられています。
つまり「嘉義」という名前そのものが、忠義(忠誠と正義)を称えた地名として成立しています。これは単なる行政上の変更ではなく、その土地の人々の行動や価値観が歴史として刻まれた結果とも言えます。
そして現代の嘉義において、市政府は公式に岳飛銅像を「忠孝節義の精神を象徴する存在」として位置づけています。(出典:嘉義市政府 2011年公式資料)
このことを踏まえると、
「忠義」という価値観が、時代を超えて可視化されていると捉えることができます。
嘉義の交差点に立つ岳飛像は、
をつなぐ存在です。夕暮れの中でその姿を見上げるとき、
そこにあるのはこの街が受け継いできた「忠義」という精神そのものなのかもしれません。
岳飛銅像綠美化、諸山羅列顯精神(岳飛銅像の緑化・美化事業 ― 山々の連なりが象徴する精神)
https://www.chiayi.gov.tw/News_Content.aspx?n=455&s=319772
岳飛銅像綠美化、諸山羅列顯精神(岳飛銅像の緑化・美化事業 ― 山々の連なりが象徴する精神)
https://www.epochtimes.com/b5/11/1/4/n3132614.htm
金国に対する北伐で連戦連勝を収めるも、和平派の宰相・秦檜に根拠のない罪で殺害された悲劇の英雄
岳飛の「精忠報国」の刺青など、後世に広まった英雄像の形成に影響を与えた文学作品。
台湾に約10年間在住し、現地で生活・仕事を経験。
現在はまいぷれ東村山・小平・東大和 編集部として、北多摩と台湾をつなぐ視点から、歴史・文化・地域の魅力を取材・発信している。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。
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