東村山・小平・東大和の歴史と文化
(更新)
―「城がない町」に残る本当の歴史―
「東村山にゆかりの戦国武将っているんですか?」
取材や会話の中で、よく聞かれるこの質問。結論から言えば、東村山は戦国武将の本拠地ではありません。
ですが・・・
それで終わらせてしまうのは、あまりにももったいない。実は東村山は、武将たちが通り、戦い、祈りを残した歴史の通過点でした。

八国山緑地
東村山市の歴史を語る上で外せないのが
鎌倉街道
これは鎌倉と関東各地を結ぶ、中世最大級の幹線道路です。東村山にはこのうち「上道(かみつみち)」が通り、
市の公式資料でも中世の重要ルートであったことが明記されています。
「城はないけど、歴史のど真ん中にいた町」これが東村山の本質です。
この地に残る戦の記憶
東村山と最も深く結びつく武将が新田義貞です。1333年、義貞は、鎌倉攻めを起こします。このとき軍勢が進んだルートの一つが、鎌倉街道=東村山を通る道でした。さらに東村山には、久米川古戦場(都指定旧跡)、将軍塚(義貞伝承地)といった形で、戦いの記憶が場所として残っているのが特徴です。
久米川古戦場
ここは東村山市の文化財資料でも、新田義貞の戦いと関係する場所として記録されています。関連する戦いとして
など
1、正福寺地蔵堂
として知られています。そして、この寺に関係する人物が
2、無象静照
北条氏と関係を持つ入宋僧、武士と深く関わる禅文化の担い手
3、徳蔵寺の元弘の板碑(重要文化財)
これは、元弘の乱の戦死者供養碑(1330年代の実物史料)とされており、戦った人々が実在した証拠が残っているという点で非常に重要です。
―鎌倉街道と久米川古戦場をたどる―
東村山の歴史は、地図で見るよりも、実際に歩くことでより鮮明になります。市内には今も、中世の鎌倉街道の流れを感じられる道筋が残っています。
西武多摩湖線のガード付近には、八坂延命地蔵尊が静かに佇んでいます。この地蔵尊は昭和に入ってから安置されたものですが、交通事故で亡くなった子どもたちを弔うために建てられたと伝えられています。中世の信仰を今に伝える神社そこから歩いていくと見えてくるのが八坂神社。創建ははっきりしていませんが、正福寺が成立した鎌倉~室町期には存在していたと考えられる古社です。かつては「牛頭天王社」と呼ばれており、疫病除けの信仰とともに地域を見守ってきました。
さらに進むと現れるのが「境塚」と呼ばれる小さな塚。この周辺はかつて馬の飼料を採る場所でしたが、新田開発が進むにつれて土地の境界をめぐる争いが発生しました。その境界を明確にするために築かれたのが、この塚です。
東村山駅周辺を抜け、旧道へ入ると、「鎌倉古道」と記された標柱が現れます。ここから先は、現代の喧騒とは対照的に、どこか時間がゆっくり流れるような道が続きます。この道こそが、かつて人々が行き交ったルートの名残です。
旧道を進んだ先にある、熊野神社。この場所には、新田義貞が久米川の戦いの際に陣を置いたという言い伝えが残っています。史実としての確定は慎重に扱う必要がありますが、こうした伝承が残っていること自体が、この地域が戦の舞台であったことを示しています。
さらに足を延ばすと、徳蔵寺。ここにある板碑群は圧巻で、中でも注目すべきは元弘3年(1333年)の板碑。
新田軍の戦死者の名が刻まれており、軍記物語『太平記』の記述と対応する内容が確認されています。
道を進むとたどり着くのが、久米川古戦場跡。『太平記』によれば、新田義貞の軍勢はこの周辺で戦いを繰り広げました。さらに近くの八国山には「将軍塚」が残されています。ここは、義貞が陣を置いたと伝えられる場所で、白旗を掲げたという伝承も残っています。
最後に見えてくるのが「公事道(くうじみち)」。この道は、鎌倉時代に、税の徴収や行政を行う役所へ通じていた道とされます。この周辺にはかつて「久米川宿」があり、人と物が集まる拠点となっていました。その先にある 二瀬橋を渡ると所沢市になります。
この一連のルートを歩くと見えてくるのは、
この道を歩けば、かつてここを通った人々の気配が、少しだけ感じられるかもしれません。あなたも一度、東村山の歴史を歩いてみませんか。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。
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