台湾×東村山・小平・東大和|文化・食・歴史を巡る旅
(更新)
— 港・城・学問・信仰が重なる、台南という都市の原点 —
台南を代表する観光地として知られる赤崁樓。ここには、
が、時代ごとに折り重なっています。

赤崁樓

17世紀、台南一帯は現在のような陸地ではなく、「台江内海」と呼ばれる入り江が広がっていました。この内海は、福建などとつながる重要な交易ルートであり、沖には大型の中国式帆船、沿岸には小型船による輸送が行われていました。
赤崁地区はこの港の対岸に位置し、すでに商人や漁民が集まる土地でした。オランダ東インド会社がこの地に注目したのも、軍事拠点としてだけでなく、交易拠点としての価値があったためです。
赤崁樓の成立を語るうえで重要なのが、1652年の「郭懷一事件」です。この反乱をきっかけに、オランダ東インド会社は赤崁地区の防衛を強化。普羅民遮(プロビンティア)に砲台付きの堡塁(ほうるい)を築きました。この要塞は、方形の主堡、対角に配置された双稜堡、22門の火砲を備えた本格的な軍事施設でした。さらに周辺には8つの街区が整備され、赤崁は「城」と「町」が一体となった統治拠点へと発展していきます。
ここまで来ると城ではないのかと思うかもしれません。現在の名称「赤崁樓」には、興味深い背景があります。オランダ人が築いた城は、中国の伝統的な城壁都市とは異なる構造でした。そのため当時の人々には「城」というよりも「樓(高楼)」のように見え、
と呼ばれるようになったとされています。

1661年、鄭成功が台湾に上陸し、オランダ勢力を排除。赤崁地域は政権の中心として再編されます。ここに設けられたのが「承天府」。この時期、赤崁地域は
として機能し、台湾の統治の核となりました。
清朝時代になると、赤崁樓の役割は大きく変わります。軍事・政治の拠点としての役割が薄れ、官僚や文人が訪れる「景勝地」としての性格を持つようになります。特に有名なのが、
夕日に照らされる城楼と港の風景は、失われていく過去への郷愁を呼び起こす存在となりました。
現在の赤崁樓の景観を決定づけたのは、19世紀後半の大改建です。
などを経て、旧来の建物は整理され、その城の基礎の上に新たな建築が整えられました。
主な構成は、
これにより赤崁樓は、オランダの要塞跡の上に、中国文化の宗教・学問空間が重なった複合施設となりました。
1886年には、蓬壺書院が設立されます。この書院は、
などを備え、海東書院・崇文書院と並ぶ「清代における三大書院」と呼ばれました。

日本統治時代、赤崁樓は再度大きく変わっていきます。
として利用された後、1935年に重要史蹟に指定。さらに1942年から調査が始まり、1944年の整修で現在の姿が整えられました。このとき、不要な建物の撤去、海神廟・文昌閣などの修復、オランダ堡塁遺構の整理などが行われ、歴史的価値を意識した「保存」が進められました。
赤崁樓の周辺は、オランダ時代から清朝、そして日本統治時代に至るまで、港と商業の中心として機能し続けました。港の交易は街の構造と一体化し、
が日常の風景を形成していきます。
現在の赤崁樓では、歴史展示だけでなく、
を再解釈する展示も行われています。
赤崁樓は、オランダの要塞として始まり、鄭成功の政権の中心となり、清朝期に景勝地・学問の場となり、日本統治時代に保存・再構成され、現代では文化を発信する場所となった、そんな歴史の層が重なった場所です。
赤崁樓の歴史を見ていると、街は一度つくられて終わるものではなく、時代ごとに役割を変えながら残っていくものだと感じます。遠い場所の話ではなく、自分たちの街を見直すきっかけになる取材でした。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。
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