こいねこ
《歌の翼に》。
チェロやヴァイオリンなどでもよく演奏される、メンデルスゾーンの美しい旋律です。
タイトルだけを聞くと、「歌に乗って空へ飛んでいく」ような、どこか抽象的なイメージを持つ方もいるかもしれません。
ところが、もともとの詩を読むと、行き先ははっきり書かれています。
ガンジス川です。
蓮が咲き、すみれが笑い、薔薇がおとぎ話をささやき、ガゼルが耳を澄ます。
今回は、メンデルスゾーン《Auf Flügeln des Gesanges(歌の翼に)》を、ハインリヒ・ハイネの原詩からたどってみます。
もともとはチェロ曲ではありません
現在はチェロでも親しまれている《歌の翼に》ですが、原曲は独唱とピアノのための歌曲です。
詩を書いたのは、ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネ(Heinrich Heine)。
詩は1822〜23年頃に成立し、1827年に刊行された詩集『Buch der Lieder(歌の本)』の「Lyrisches Intermezzo(叙情的間奏曲)」第9篇として収められました。
初版では独立した題名が付いていたわけではなく、現在知られている「Auf Flügeln des Gesanges」は詩の冒頭の言葉です。
メンデルスゾーンは、この詩に1830年代に曲を付けました。自筆譜は1834〜35年頃のものとして残されています。
「歌の翼」に乗せて、愛しい人を連れていく
詩の冒頭は、
“Auf Flügeln des Gesanges,
Herzliebchen, trag’ ich dich fort”
「歌の翼に乗せて、愛しい人よ、あなたを連れていこう」
そして次に行き先は、
“Fort nach den Fluren des Ganges”
「ガンジスの野へ」
です。
なぜ、突然ガンジスなのか?ここがこの詩の面白いところです。
なぜドイツの詩人ハイネが、恋人をガンジス川へ連れていこうとするのでしょうか。
Goethe-Institutの論考では、この詩に描かれるインドを、現実のインドではなく、ドイツ・ロマン派の歌曲の中にしか存在しない幻想のインドとして論じています。
実際、ハイネの詩に登場するものを並べると、
と、非常に幻想的です。現実のガンジス川周辺を忠実に描写した風景というより、ヨーロッパから遠く離れた場所を材料にして作られた想像上の楽園と考えた方が自然です。
「Gesanges」と「Ganges」
さらにドイツ語原文を見ると、もう一つ面白い仕掛けがあります。
冒頭の、
Gesanges(歌の)
と、
Ganges(ガンジス)
が韻を踏んでいるのです。
「歌の翼」に乗ってガンジスへ行く、という内容だけでなく、言葉の響きそのものがガンジスへ運んでいくようにもできています。
月明かりの庭へ
ガンジスのほとりに着くと、詩はさらに幻想的になります。
そこには、
“ein rothblühender Garten”
「赤い花の咲く庭」
があり、静かな月明かりに照らされています。
そして、
Lotosblumen(蓮)
が二人を待っています。
更には、この先、個人的には悪夢のような描写ですが、一般的にはロマンチックな自然描写と言われている、植物たちが人間のように動き始めます。
すみれは笑い、薔薇はおとぎ話をする
“Die Veilchen kichern und kosen”
「すみれたちはくすくす笑い、戯れる」
さらに薔薇は、
“duftende Mährchen”
「香り立つおとぎ話」
を互いの耳にささやきます。
花が笑い、花が話す。
ここまでくると、現実の庭ではありません。
恋人たちのために、自然そのものが生き始める世界です。
ガゼルまで耳を澄ませる
“die frommen, klugen Gazell’n”
「敬虔で賢いガゼルたち」
が跳ねてきて、耳を澄ませます。
そして遠くからは、
“Des heiligen Stromes Well’n”
聖なる川の波音が聞こえてきます。
花、動物、川。
すべてが同じ夢の中に溶け込んでいます。
最後に二人がすること
詩の最後では、
“Dort wollen wir niedersinken
Unter dem Palmenbaum”
「そこで私たちは椰子の木の下に身を横たえよう」
さらに、
“Und Liebe und Ruhe trinken”
「愛と安らぎを飲もう」
そして最後は、
“Und träumen seligen Traum.”
「そして幸福な夢を見よう」
で終わります。
最後が「夢」で終わる意味
ここまで詩を追うと、
歌の翼に乗る
↓
ガンジスへ向かう
↓
幻想の庭に着く
↓
花が笑い、薔薇が語る
↓
ガゼルが耳を澄ます
↓
愛と安らぎを飲む
↓
幸福な夢を見る
という流れになります。
二人の現実の旅ではなく、歌そのものが、二人を夢の世界へ連れていく。
この構造が、《歌の翼に》という題の意味をよく表しています。
メンデルスゾーンは、この詩をどう音にした?
ここからは音楽の話です。メンデルスゾーンの伴奏には、柔らかく流れ続ける分散和音が使われています。
Goethe-Institutの論考では、この伴奏を、詩をガンジスへ運ぶ「歌の翼」そのものとして読んでいます。
詩は、
歌の翼が恋人を運ぶ。
そして音楽では、
ピアノの流れが旋律を運ぶ。
詩と音楽が同じ方向へ動いているように聞こえます。
※これは作曲者本人がそう説明したという史実ではなく、Goethe-Institut掲載論考による音楽的な読みです。
ハイネは本気でこの楽園を書いたのか?
ここは断定できません。
ハイネはロマン派的な美しい詩を書く一方で、ロマン主義的な表現に距離を取り、皮肉を用いる詩人でもありました。
ロマン派的世界です。
これは純粋な夢なのか。
それとも、夢のようなロマン主義そのものを少し距離を置いて眺めているのか。
ハイネはこの詩を皮肉として書いたのかは、すでに聞くこともできません。
そして現在、チェロでも歌われる
《歌の翼に》は、もともと声とピアノのために作られました。
つまり原曲には、ハイネの言葉があります。
ところが、チェロで演奏すると歌詞はなくなります。
残るのは、メンデルスゾーンの旋律です。
でも原詩を知ってから聴けば、
この旋律がどこへ向かっているのか。
どんな景色を通っているのか。
少し想像しやすくなります。
言葉のないチェロでも、そうした景色を思い浮かべながら聴くことができます。
次に《歌の翼に》を聴くときには
原詩にもある、行き先、
ガンジス川。
現実のインドというより、ハイネが言葉の中に作った幻想の楽園
Gesanges(歌)
Ganges(ガンジス)
が韻を踏んでいる。
歌の言葉そのものが、恋人たちを遠い場所へ運んでいくようです。
次に《歌の翼に》の旋律を耳にするときには、ぜひその先にある風景も少し想像してみてください。
主な参考資料・確認資料
Heinrich Heine『Buch der Lieder』初版系資料 / Wikisource
1827年刊『Buch der Lieder』「Lyrisches Intermezzo」
第9篇の原文、成立時期1822〜23年、初版ページ
Wikisource「Auf Flügeln des Gesanges」
LiederNet Archive「Auf Flügeln des Gesanges」
ハイネ原詩を1827年初版
LiederNet「Auf Flügeln des Gesanges」
Deutsche Digitale Bibliothek / Heinrich-Heine-Institut
Felix Mendelssohn Bartholdy「Auf Flügeln des Gesanges」自筆譜
Deutsche Digitale Bibliothek「Auf Flügeln des Gesanges」自筆譜
Goethe-Institut「Poets translating Poets – Essays」
この詩に描かれたインドを「ドイツ・ロマン派歌曲の中の幻想のインド」と捉える論考、Gesanges / Gangesの韻、メンデルスゾーンの分散和音を「歌の翼」と読む解釈
Goethe-Institut「Poets translating Poets – Essays」
| 名称 | こいねこ |
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| メールアドレス | koinekomusic@gmail.com |
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