こいねこ
オペラフィガロの結婚より
フィガロのアリア《もう飛ぶまいぞ、この蝶々》
恋に浮かれる少年を送り出す、勇ましい行進曲。しかし歌詞を読むと、軍隊生活への皮肉がいっぱい。しかも、その旋律は別のオペラにも登場していました。
「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」
モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》に登場する、バス・バリトンの名アリアです。
軽快で勇ましい旋律は、まるで兵士たちが行進しているかのよう。
ところが、歌詞を読んでみると、軍隊への応援歌とは少し違うことが分かります。
恋に浮かれる少年をからかいながら、これから待ち受ける軍隊生活を大げさに語っているのです。
しかも、モーツァルトはこの旋律を、翌年の別のオペラにも登場させました。
なぜ、恋する少年をからかう歌が、これほど勇ましい音楽になったのでしょうか。
その答えを探るため、まずはオペラの物語から見ていきましょう。
恋に浮かれる少年ケルビーノ
《フィガロの結婚》(Le nozze di Figaro)は、1786年5月1日にウィーンのブルク劇場で初演されました。
作曲はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)。
台本は、ロレンツォ・ダ・ポンテ(1749〜1838)が、フランスの劇作家ボーマルシェの戯曲をもとに書きました。
物語の舞台は、スペインのアルマヴィーヴァ伯爵の屋敷です。
伯爵に仕えるフィガロは、恋人スザンナとの結婚を控えています。
ところが、伯爵自身もスザンナに関心を寄せており、屋敷の中ではさまざまな思惑が交錯しています。
そこに登場するのが、若い小姓ケルビーノです。
ケルビーノは、女性を見るとすぐに恋をしてしまうような、思春期の少年。
伯爵夫人に憧れ、スザンナに心を奪われ、バルバリーナとも親しくしています。
そんなケルビーノが、伯爵の怒りを買ってしまいます。
伯爵は、ケルビーノを軍隊へ送り出そうとした
第1幕の終盤。
伯爵は、ケルビーノに自分の連隊の士官の地位を与え、すぐに出発するよう命じます。
表向きには、軍人としての栄誉ある任命です。
しかし、物語の流れから見れば、屋敷で騒動を起こす少年を遠ざけるための処置でもあります。
そこでフィガロが登場します。
フィガロは、軍隊へ行くことになったケルビーノに、陽気な歌を歌って聞かせます。
それが《もう飛ぶまいぞ、この蝶々》(Non più andrai)です。
実はフィガロは最初、ケルビーノに小声で、出発前に話したいことがあると伝えます。
そして、喜んでいるふりをしながら歌い始めるのです。
「蝶々」とは、誰のことなのか?
アリアの冒頭を、イタリア語で見てみましょう。
Non più andrai, farfallone amoroso,
notte e giorno d'intorno girando;
「もう飛び回ることはないぞ、恋する大きな蝶々よ。
昼も夜も、あたりをうろつき回っていたが」
ここでフィガロが「蝶々」と呼んでいるのは、ケルビーノです。
イタリア語の farfallone は、蝶を意味する farfalla に由来する言葉。
単に美しい蝶というより、あちこちを飛び回る大きな蝶という、からかいの響きを持っています。
ケルビーノは、女性たちの周りを飛び回り、恋の相手を探し続けてきました。
そんな少年に向かって、フィガロは言います。
「もうそんな生活はできないぞ」
続く歌詞では、女性たちの安らぎを乱す、小さなナルキッソス、恋のアドニスとも呼びかけます。
ナルキッソスもアドニスも、美しい若者に関係する神話上の名前です。
つまりフィガロは、ケルビーノの容姿や恋愛好きな性格を、神話まで持ち出して大げさにからかっているのです。
おしゃれな少年が、泥だらけの兵士に?
フィガロのからかいは、さらに続きます。
ケルビーノがこれまで楽しんでいた、華やかな宮廷生活。
そのすべてが、軍隊生活に変わるというのです。
Non più avrai questi bei pennacchini,
quel cappello leggiero e galante;
「もう、あの美しい羽飾りも、
軽やかでしゃれた帽子もなくなるぞ」
さらに、華やかな服装や髪形、女性たちとの交流にも別れを告げさせます。
代わりに待っているのは、兵士としての生活です。
軍服を着て、銃を担ぎ、剣を帯びる。
華やかな舞踏会とは、まったく違う世界が待っています。
そしてフィガロは、こんな言葉を歌います。
molto onor, poco contante
「名誉はたっぷり、現金はわずか」
皮肉です。軍人には名誉がある。しかし、お金はそれほど手に入らない。
勇ましい軍隊の姿を描きながら、フィガロはその現実的な待遇までからかっているのです。
ファンダンゴ(スペインの踊り)の代わりに、泥の中を行進する
もう一つ、注目したい歌詞があります。
ed invece del fandango
una marcia per il fango.
「ファンダンゴを踊る代わりに、
泥の中を行進するのさ」
ケルビーノが楽しんできた華やかな踊りと、軍隊での厳しい行進。
その二つが、ここでは対比されています。
しかも、fandango と fango は、イタリア語で音が似ています。
「ファンダンゴ」と「泥」。
踊りの代わりに行進を。華やかな宮廷の代わりに泥だらけの軍隊を。
フィガロは、ケルビーノの未来を面白おかしく描いているのです。
なぜ、音楽はこんなに勇ましいのか?
歌詞だけを読むと、ケルビーノへの皮肉がたっぷり含まれています。
ところが、モーツァルトの音楽は実に勇ましい。
まるで、英雄を送り出す行進曲のようです。
しかし、ここにこそモーツァルトの面白さがあります。
フィガロは、本当にケルビーノを英雄として送り出しているのでしょうか。
台本には、喜んでいるふりをして歌うと書かれています。
そして歌詞は、少年の恋愛生活と軍隊の苦労を対比しています。
さらに、音楽学の研究では、このアリアに行進曲的な性格だけでなく、舞曲の要素も組み合わされていることが指摘されています。
宮廷の踊りと軍隊の行進。
歌詞の中で対比される二つの世界が、音楽の中でも重なっているのです。
フィガロは、最後にラッパまで吹く?
アリアの終盤では、フィガロが軍隊の情景をますます大げさに描きます。
そして最後には、こんな歌詞が登場します。
Cherubino, alla vittoria,
alla gloria militar!
「ケルビーノよ、勝利へ!
軍人の栄光へ!」
ここだけを聞けば、まるで本物の軍隊への応援歌です。
しかし、それまでの歌詞を知っていると、印象は少し変わります。
恋に浮かれていた少年に向かって、フィガロが大げさに軍人の栄光を語っているのです。
さらに終盤には、ラッパの合図を思わせる音型も登場します。
ケルビーノはすぐには軍隊へ行かない
ここで、物語にはもう一つ面白い展開があります。
あれほど盛大に送り出されたケルビーノですが、実はその後も屋敷に残っています。
第2幕では、伯爵夫人とスザンナの計画に巻き込まれ、さらに大きな騒動を引き起こします。
そして、軍への任命書に必要な印章が押されていなかったことが、後に重要な意味を持ちます。
つまり、フィガロの勇ましい見送りは、すぐには現実にならなかったのです。
観客は、あの壮大な行進曲を思い出しながら、ケルビーノがまだ屋敷で騒動を起こしている姿を見ることになります。
翌年、《ドン・ジョヴァンニ》にも同じ旋律が登場した
このアリアには、さらに驚くような後日談があります。
《フィガロの結婚》の初演から翌年の1787年。
モーツァルトは、プラハで新しいオペラ《ドン・ジョヴァンニ》を初演しました。
その第2幕、主人公ドン・ジョヴァンニが食事をする場面で、舞台上の楽団がさまざまな曲を演奏します。
その中に、《もう飛ぶまいぞ、この蝶々》の旋律が登場するのです。
すると、従者レポレッロがこう言います。
Questa poi la conosco pur troppo.
「これは、もう嫌というほど知っている」
なぜ、レポレッロはこの曲を知っていたのでしょうか。
実は、ここに当時の観客に向けた冗談が隠されていました。
「嫌というほど知っている」と言った歌手の正体
1787年、プラハで《ドン・ジョヴァンニ》のレポレッロを演じたのは、フェリーチェ・ポンツィアーニという歌手でした。
そしてポンツィアーニは、それ以前にプラハで《フィガロの結婚》のフィガロ役を歌っていたのです。
舞台上のレポレッロが「この曲は嫌というほど知っている」と言ったとき、演じている歌手自身も、実際にそのアリアを歌った経験があるというネタだったわけです。
オペラの登場人物の台詞が、歌手本人の経歴とも重なる。
モーツァルトは、自分の別のオペラの旋律を引用し、観客が気づけば笑える仕掛けを作っていたのです。
当時のプラハで《フィガロの結婚》を観た人なら、なおさら面白く感じたことでしょう。
プラハの人々は《フィガロの結婚》に夢中だった
この引用の背景には、当時のプラハでの《フィガロの結婚》の人気があります。
1787年1月15日、モーツァルトはプラハから友人ゴットフリート・フォン・ジャカンに手紙を書いています。
そこには、《フィガロの結婚》の音楽が舞曲に編曲され、人々が楽しそうに踊っている様子が記されています。
さらに、プラハでは誰もが《フィガロ》の話をし、その音楽を演奏し、歌い、口笛で吹いていると、モーツァルト自身が喜びを伝えています。
さらに、舞踏会用の音楽にもなった
《もう飛ぶまいぞ》の旋律は、管弦楽のコントルダンスにも取り入れられました。
《5つのコントルダンス》K.609の第1曲です。
コントルダンスは、当時の社交の場で踊られていた舞曲の一種です。
軍隊への見送りの歌が、舞踏会の音楽になる。
ここにも、モーツァルトの音楽が持つ柔軟さと、旋律の親しみやすさが表れています。
今、もう一度《もう飛ぶまいぞ》を聴いてみると
《もう飛ぶまいぞ、この蝶々》は、ただ勇ましい軍隊の歌ではありません。
恋に浮かれる少年をからかう、フィガロのユーモア。
宮廷生活と軍隊生活を対比する、イタリア語の言葉遊び。
行進曲のような音楽に込められた、大げさな演技。
そして、別のオペラにまで登場する、モーツァルト自身の音楽的な冗談。
こうした背景を知ると、あの軽快な旋律が、少し違って聞こえてくるのではないでしょうか。
主な参考資料
1.モーツァルテウム財団/《フィガロの結婚》イタリア語台本
https://dme.mozarteum.at/libretti-edition/single.php?end=1585&idwnma=5677&line=205&v=1
2.Neue Mozart-Ausgabe/新モーツァルト全集
《フィガロの結婚》K.492および《ドン・ジョヴァンニ》K.527の楽譜・校訂資料。
3.Journal of Musicology Pedagogy/《フィガロの結婚》における舞曲の研究
https://jmp.amsmusicology.org/enlightenment-dance-styles-in-mozarts-le-nozze-di-figaro/
4.モーツァルテウム財団/モーツァルト週間研究年鑑(2023年)
《ドン・ジョヴァンニ》の引用と初演歌手に関する研究。
https://opern.news/media/pdfs/ISM_MoWo_2023_Almanach.pdf
5.ケッヘル目録/《5つのコントルダンス》K.609
https://kv.mozarteum.at/en/work/funf-contredances-for-dance-ensemble-7089
6.モルガン図書館/1787年1月15日付モーツァルトの手紙
プラハでの《フィガロの結婚》の人気に関する一次資料。
https://www.themorgan.org/exhibitions/online/mozart/427
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